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表現の仕事

12月30日の朝日新聞テレビ欄「試写室」で、フジテレビ系列のドキュメンタリー番組「私たちの時代」が紹介されていた。

「このドキュメンタリーを見た静かな感動を文字するのは困難だ」で始まり、「混迷し自信を失った日本人に向けて、テレビができることの答えがこの番組にある」と締めくくられた「試写室」の記事からは、書いた丸山玄則さんが本当に心が動かされた様子が伝わってきた。

ものを書く人間が「文字にするのは困難だ」と言うのは、決して敗北じゃない。実際、そういうものだと思う。言葉には、言葉にしか果たせない役割もある。けれど、人の心の微妙な動きや機微を表現するための道具としては、言葉はとても粗くて、雑で、ものすごく解像度が低い。

丸山さんは率直にそのことに向き合っている。そのうえで、映像の力を認めているのだ。その真摯さを信頼して、番組を見てみたいと思った。

時計を見ると、午後1時半。番組は正午から始まっていた。テレビをつけると、ちょうど第2部が始まるところだった。

最初のシーンから、涙が止まらなかった。もう本当に、ポロポロと涙がこぼれた。自分の涙がふくれ上がってるのが見えるんだぜ? しまいにはしゃくりあげ、鼻水をブーブー垂れ流しながら、とにかく涙がこぼれ続けた。

石川県立門前高校の女子ソフトボール部を追ったストーリーで、内容自体は決して物珍しいものではなかった。オレが見なかった第1部は、長期間の取材中に偶然起きた能登半島地震が軸になっていたようだが、それを加味しても、よくある話と言っていいと思う。ドキュメンタリーとしては演出過多な部分も目立った。大きなテーマに無理につなげようとしているようにも思えた。

それなのに、1シーンごとに涙が止まらなかった。

それは、作り手の真っ直ぐな思いが、真っ直ぐに伝わってくる番組だったからだ。

制作に携わった人たちには、真っ黒に日焼けして化粧っけのない坊主頭の女子高生たちが、美しく見えていた。口数が少なく朴訥とした彼女たちの言葉が、清らかに聞こえていた。女子高生たちを取り巻く人々が織りなす空気に、心を揺さぶられていた。ありがちで平易な光景や言葉の中に、しっかりと重みを見つけていた。伝えるべき何かを感じ取っていた。

それをどうにか表現したい、どうにか伝えたい、という思いに満ちていたのだ。

制作者があらかじめ用意した答えに、彼女たちを無理矢理当てはめようとしていなかった。ありのままの彼女たちに寄り添おうとしていた。カメラワーク、選曲、編集、どこを取ってみても、自己顕示欲が感じられなかった。ただ、「彼女たちをどう伝えるか」「彼女たちを通して何を伝えるか」という純粋さだけがあった。

テレビも捨てたもんじゃないな、と思った。

と同時に、表現に携わる者の端くれとして、とても強く勇気づけられた。どんなに些末で平凡な事象の中にだって、伝えるべきことがちゃんとある。要するに、作り手がどんな眼差しを持っているか、なんだ。

記憶が蘇る。

数年前、グランプリ取材のために、ヨーロッパに行った。南フランスの小さな村の山腹にあるかわいいホテルの一室で、オレはカメラマンのヒデヨシとダラダラと荷造りをしていた。そしてヒデヨシが何気なくつけたテレビから、オリンピックのコマーシャルが流れてきた。

競技のドラマチックな映像。最後に静かに浮かぶコピー。

CELEBRATE HUMANITY

あっ、と思った瞬間にズドーンと心に打ち込まれて、あの日から離れたことがない。

セレブレイト・ヒューマニティ。人間賛歌、とでも訳せばいいのだろうか。人間って素晴らしいよね。人間って、いいよね。それを伝えるのがオレのやりたい仕事なんだと、あの瞬間に分かった。

オレにはものを見る目があって、ものを聞く耳があって、ものを感じる肌がある。そして、それを文章にすることができる。

いつも何かを人に伝えたいと思う。空を見上げても、雲を眺めても、風に吹かれても、それをどんな文章にしたら人に伝えられるかな、と考えている。

バイクに乗っても、サンバーに乗っても、自転車に乗っても、電車に乗っても、おっとこれじゃあ乗り物ばっかだ、本を読んでも、映画を観ても、ウンコしても、骨折しても、人に会っても、街を歩いてても、何でもいい。とにかく自分が見たり、聞いたり、感じたことを、どうすれば人に届けられるかな、と思っている。

「表現」という作業は、自分のためにあるんじゃない。人に伝えるためにある。そのことは自覚していた。ただ、その源は何なのか、何をしようとしてるのか、何を伝えたいのか、そういう大枠は、自分ではよく分かっていなかった。でも、「CELEBRATE HUMANITY」というコピーが気付かせてくれたんだ。

オレひとりが何かを感じたところで、そのことで満足したところで、ちっとも面白くない。何の広がりもない。

でも、誰かに誰かの素晴らしさを知ってもらえれば、そして「ああ、人間っつう生き物も捨てたもんじゃないな」と思ってもらえれば、オレが感じたこと、得たものが広がっていく。ささやかな価値を持たせることができる。

オレ自身の価値じゃない。そんなのはどうでもいい。オレ自身には価値も意味もないんだ。でも、オレが見たもの、聞いたもの、感じたものには、いくらかの価値がある。分かるかなあ。

それを「CELEBRATE HUMANITY」という考え方に根ざして表現して、誰かに伝えることができれば、初めて意味が生まれる。

どう伝えたらいいか。何を伝えたらいいか。そのことを深く考え、しつこく吟味し、実現のために多くの人が関わり、同じ方向を向きながら、それぞれが持てる能力を全開で発揮したときに、表現は、多くの人の心を動かす「熱」を持つことができる。

「私たちの時代」は、テレビという映像メディアの特性を最大限に生かして人の心を動かす、ひとつの例だったんだ。

誰だって、尊い物語を背負って生きている。誰からでも、学ぶべきこと、聞くべきことがある。その物語を他の誰かに伝えることが、表現のひとつの側面だ。そしてオレは、そういう表現を見聞きしたり、作ったりしたい。

表現には、本当にいろいろな方法や、いろいろな側面や、いろいろな立ち位置がある。オレは、じっくりと時間をかけて丹念に取材して、愛を持って編集され、「誰かに何かを伝えたい」という真っ直ぐな熱を帯びた、「私たちの時代」のような表現が好きだ。

ツイッターをやめたのは、そこでの表現のあり方が好きではなかったからだ。無加工の「自分」があわただしく発散され、忙しく流れていく世界は、オレの見たいもの、聞きたいもの、感じたいものではなかった。

ツイッターとはいえ不特定多数の目に触れるものである以上は、表現ツールと考えていいと思う。である限りは、「なう」なノリで剥き出しな自分情報を垂れ流す表現形態自体が今までにない新しい価値を生む、という考え方を、オレは否定しないけれど、賛同もしない。

ツイッターに限らず、新しい場が提示されれば、そこには必ず新しい動きが生じる。そして、今までにないコミュニケーションのありようが生じる。実際、ツイッターを柱にして面白いことが起きている。ちょっとだけツイッターをやってみて、その一端を垣間見たが、それはオレの好きなかたちじゃなかったんだ。

オレにとって表現は、多くの人の手間と時間と愛情をかけて吟味するべきもの、なんだ。自己完結するつもりなんかさらさらなくて、批評や批判を浴びまくっても構わないから、制作の過程では少しでも多くの人に関わってほしい。

そして最終的には多くの人に「CELEBRATE HUMANITY」を伝えるものでありたい。「何だかんだ言っても、人間っていいな」と思えるものでなければ、オレはちっとも楽しくない。明るい気持ちになれない。

オレ自身も、「人間っていいな」と思いたい。もちろん、脳天気な美談がすべてだと思ってるわけじゃない。「人間っていいな」と思いたいのは、人間には途方もない闇があることも知っているからだ。

でも、過ち、葛藤、すれ違い、悪意、事故、戦い、あり得ない事件、さまざまなよくないことがあったとしても、それらを引っくるめて「人間っていいな」と思いたい。見かけだけじゃない、本当の美しさがあるんだって。

「私たちの時代」の女子高生たちは、本当に美しかった。美形じゃないし色白でもなくスタイルもよくないし言葉に長けているわけでもない彼女たちは、素晴らしく美しかった。そのことに気付いた人がいて、その美しさを伝えたいと思い、丹念に番組を作り上げた。その志もまた、美しい。

オレは自分が表現者だなんて大それたことを思ったことがない。いまだに名刺に「ライター」だの「編集」だのという肩書きすら入れられないんだ、畏れ多くて。だからオレは何者でもない。ただ、自分のできることをやっているだけだ。

でも、さまざまな表現やいろいろな出来事に触れながら、自分の立ち位置が少しずつ分かってくる。好きなものがはっきりしてくる。

「私たちの時代」を見て、オレは表現の仕事が好きなんだということを、改めて知った。多少なりともそういう領域に関わっていられる喜び、そして、同じことを考えている人がどこかにいるという喜びが、涙になった。

日々の業務の中で、何もかもが思い通りになるわけじゃないし、常に正しい判断ができているかも分からないし、いい仕事ができている自信なんかまるでない。

でも、「人間っていいな、と思ってもらおう」という志さえ忘れずにいれば、いつか自分で自分を許せるような表現ができる……と、いいんだけど、なぁ……。

Dsc01266

右足は猛烈な勢いで回復している。正座はできるし、ウンコ座りもヨユーでOK。もちろん毎日モリモリとウンコしまくりだ。でもさ、ウンコ座りはできても、オレ、和式トイレが苦手なんだよねー。自分のウンコの臭さを思い知らされるじゃん。「うわ、こんな臭ぇんだ!」って。「こんなにまでも臭いんだ!!」って。洋式便器が優れてるのは、放出されたウンコがすかさず水没して、臭さが封じ込められることだよね。それでも十分臭いんだけどさ。はっはっは。え? 何の話かって? ま、ほら、その、ね、今回は、快気祝いクリックってことで→にほんブログ村 バイクブログ バイク モータースポーツへ

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