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27日は富士スピードウェイへ

10月27日(土)の富士スピードウェイで、難波恭司さんが久しぶりのロードレース復活を果たす。すでに10月7日、十勝での耐久レースで実戦カンを取り戻した難波さん。「1998年の世界ロードレース選手権、ザクセンリンクでのドイツGP以来」(←かっちょいい)となるスプリントレースを4日後に控え、目下相当必死になってYZF-R1を整備中である。

難波さんは「いや〜、楽しむことが目的だから」とか言いつつ、24日(水)、および26日(金)にも富士スピードウェイで練習走行をし、最後の調整にあたる。ぬおー、レースウィークに2日間の練習! ヤバイ。かなり本気だ!!

難波さんと言うと、最近のレースファンなら「NHK-BSのGP放送で解説をしてた人だよね?」と認識している方が多いかもしれない。雑誌「ビッグマシン」の読者なら、「ああ、『今日もバイクで』の人ね」と思うかもしれない。どちらも正解ではあるが、実はもっとすげぇ人なのである。

ジャン-ミッシェル・バイルの代役として、世界GPに5戦に出場した1998年のことを書いた原稿を、ちと長いけど丸ごと掲載してみようと思う。ちなみにこれは2002年に、ヤマハの販売店向け冊子用に書いたものだ。ゲー。5年前か〜。時が経つのは早ぇなぁ。

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夢のマシンで夢の舞台に

「こんな大舞台に立てるなんて……」。1998年4月5日、世界グランプリ開幕戦・鈴鹿。決勝のスターティンググリッドについた難波恭司さんの目の前に、他のライダーの姿はない。彼方に1コーナーが見える。
 予選で2番手グリッドを獲得するとは、自分でも予想だにしていなかった。ロードレースの最高峰、世界グランプリ500ccクラスにエントリーすること自体が、難波さんにとっては遠い夢の世界の話だったのだ。
「いくらお金を積んだって叶わない夢が掴めたわけですからね。喜ぶどころか、もう地に足が着いていなかった」
 シーズンオフのテストでジャン=ミッシェル・バイル選手が負傷し、その代役として「日本GPに出ないか?」と声をかけられた時には、耳を疑った。
「当時はもうレースはしていなかったけど、いつでも出られるように気力・体力ともに準備はしていました。でも、まさかこんなチャンスがくるなんてね。この年は、藤原儀彦さんが開幕戦・鈴鹿と第2戦マレーシアにエントリーすることになっていましたが、『頑張ってね〜』って、僕にはまるで他人事だった」
 しかもマシンはファクトリーマシンYZR500。開発ライダーとしてテストコースでYZR500を走らせてはいたけれど、レースはまったくの別世界だ。ヤマハの看板を背負い、ファクトリーマシンを走らせ、日本の観客の前で戦う。そのことは難波さんにとって、とても大きな意味を持っていた。

走っても走っても飽き足らない

 難波さんのバイクライフは、いつもヤマハとともにあったのだ。自転車少年だった難波さんがバイクと出会ったのは、中学生の時だった。地元・広島のヤマハ営業所の所長が、採石場や空地でバイクに乗せてくれた。「バイクって楽しいものなんだ!」。この時の強い印象が、難波さんの人生を決定づける。
 '82年、19歳で本格的にレースを始め、人から借りたRZ350で中山サーキットのシリーズ戦にエントリー。13戦中5〜6勝を挙げ、チャンピオンを獲得する。「ポイントの計算方法を知らなくて。年が明けてから表彰式があったんですけど、そこで初めて自分がチャンピオンだと知った。あんまり興味がなかったんですね。とにかく走ることが面白くて仕方がなかった」
 当時はバイクショップに勤務していたが、峠ブームでとにかく多忙。昼は接客や登録、配達に追われ、夜は常に10台ほどの修理や整備を抱える毎日だった。それでも毎週の走行は欠かさない。走って、走って、走ってもなお飽き足らなかった。
 転機は'85年、22歳の夏に訪れた。FZ400Rで鈴鹿4耐にエントリーし、3位に入賞したのだ。解体屋で手に入れたXJ400Z用のホイールでフロントを18インチ化したり、予選落ちしたチームからタンクを借りたりした、寄せ集めマシンでの成果だった。
「レース中は転倒もあったんですけどね。この結果には『頑張れば何とかなるんだ』って感動しました。自分としても、レースの世界でやっていけるかなっていう自信になった」
 4耐の表彰台の上で、ようやくライダーとしての人生の輪郭が浮かび上がってきた。それまではただ面白いからバイクに乗り、レースに参加してきたが、「全日本で走りたい」と、明確な目標が見えたのだ。

憧れだったテストコース

 翌年、特別昇格で国際A級にジャンプアップすると、知人の紹介などがあり、YDS岡部のライダーとしてTZ250で全日本ロードレースに出場。筑波での初戦で予選10番手前後につけた。エントリー約100台という激戦をかいくぐっての結果だ。
「周りは『寒くてタイムが出ないなあ』なんて言ってるのに、僕は何も分かっていなかったからガンガン走ってた。そしたらたまたまYDS岡部からエントリーしてる国際A級ライダーの中で一番いい結果だったんです」
 ちょうどその時、ヤマハはTZの開発ライダーを探していた。そして、予選で好結果を出していた難波さんに声がかかったのだ。
「決勝が雪でキャンセルになったおかげですね」と難波さん。実は決勝前、「スタートぐらい決めよう」と筑波サーキットのウォームアップ場でスタート練習していた際、ハイサイドで転倒し、頭を打つわマシンのステップを折るわの一騒動を起こしていたのだ。
「決勝が行われていたら、僕なんかに声がかかることはなかったと思う」と笑う。
 この年の夏からTZ250のテスト走行や完成検査、耐久テストなどに参加し、ヤマハの開発ライダーとしての道を歩み始める。
「テストコースを走れるだけでうれしかった。平さんやシャケ(河崎裕之)さんのように、雑誌でしか見たことがない人たちもいるし、そりゃあ緊張しました」
 仕事もハードだ。強烈に寒い真冬でも、多い時には3人がかりで1日に400台のTZを走らせ、検査した。テストコースで開発し、レースという実戦の場で成果を試す。朝から晩まで走り続け、時にはピットに正座させられて怒鳴りつけられた。
「それでもイヤにはならなかった。何しろバイクに乗るのが好きだったから……」
 タイヤが減った時の挙動はどうか、サスの動きをもう少しこうしたい、スロットルを軽く……。自分の考えや感触、パーツ変更によるフィーリングの変化を的確に開発スタッフに伝える術も学んだ。やがて難波さんは次期市販レーサーの先行開発やファクトリーマシンの開発にも携わるようになる。

マシンコンディションを感じ取る繊細な物差し

 そして10年が経った'96年。「レース活動に区切りをつけてはどうか」という話が持ち上がった。現役レーサーとしての終止符だった。「チャンピオンになっていなかったし、仕方ないかな、と思ってました。でも……」
 それより驚いたのは、話に続きがあったことだ。「引き続きヤマハで500の開発を頼みたい」と言われた。ヤマハの500ccマシン、それはファクトリーのYZR500しかない。以前にテストコースで少しだけ乗ってみた印象は、「人間の乗るものじゃない」。テストをこなせるとは思えず、「少し考えさせて下さい」と、即答できなかった。
「それでも、ものすごい栄誉だとも思ったんです。乗れれば慣れるかもしれないしな、なんて自分に言い聞かせたりして。で、『1年間は練習のつもりでやらせてくれ』なんて、今思えば図々しい返事をしました」
 最初のうちは全然乗りこなせなかった。250ccマシンと500ccマシンではライディングの方法論がまったく違う。少しずつセッティングの方向性を変えたり、周囲のアドバイスを得たりしながら、徐々にYZR500を自分のものにしていった。
 '97年には自分なりのセットアップを煮詰め、開幕前のテストで阿部典史選手に試してもらう。感触もタイムも悪くなかった。「自分が速く走れるセッティングなら、他のライダーも速く走れるんだ!」。マシンの基礎固めをする自信がついた。「エンジニアには『当たり前だよ』と一蹴されましたけど、うれしかったですね」と振り返る。
「僕は石橋を叩いて叩いて、叩き壊して、結局渡らないタイプ。決して天才肌じゃないんです。裏方仕事の方が好きで、表に立つレーシングライダーとは違う。ただ、マシンの状況を感じ取る物差しだけは、他の人たちよりいいものを持っているのかも」

ただひたすらにバイクを楽しむ

 そして'98年の世界グランプリ開幕戦・鈴鹿のスターティンググリッドに難波さんがいる。自らの物差しを武器に、2番手という檜舞台に立っている。
 ヤマハの営業所長が、ふとした弾みで誘った中学生。それ以後バイクの世界にのめり込み、レースの世界に足を踏み入れ、開発ライダーとしてのキャリアを積み重ねてきた。最初の触れ合いで知った「バイクって楽しい」という感覚は、まったく色あせることがない。プロライダーとしての意識はもちろんある。けれど、世界グランプリの2番手グリッドも、ただひたすらにバイクを楽しんできた延長線上に過ぎないのだ。
 そしてシグナルが変わる。難波さんは無我夢中で走る。トップチームで、トップライダーとして世界最高峰のレースを走る。何物にも代え難い栄誉と喜びを感じながら。

Column
できる範囲でバイクの普及活動を──
やがて日本全体が変わると信じて

レーシングマシンの開発では、「僕が乗りやすいマシンなら、他の人も乗りやすいはず」と信じてきました。だから今、「自分が楽しければ、他の人も楽しいはず」と信じて、モータースポーツの普及活動を行っています。
 僕自身、ほんの一瞬バイクが楽しいと感じられたことが、今までずっと続いています。だからこそ、バイクの面白さをまだ経験したことがない人に、少しでも機会を提供できればと考えているんです。
 現在の親世代がバイクの楽しさを知ってくれれば、子の世代にも伝わっていくでしょう。そうやってもう10年も経てば、日本全体が変わるかもしれない。夢のような話かもしれませんが、そのために僕にできることを少しずつ進めているところです。
「モータースポーツ」と言ってしまうと敷居が高いのですが、もっと気軽な遊びの一環としてバイクを楽しんでもらいんですよ。バイクだって他の趣味やスポーツと同じで、手軽に非日常的な世界を楽しんで、日常を刺激してくれるアイテムだと思うんです。
 操れた時の快感、そして夢と行動範囲の広がり。仲間たちとの楽しいひととき。素晴らしい経験をさせてくれるバイクの魅力を、販売店の方たちも、ぜひ多くの方たちに伝えていただけたらと思います。僕にお手伝いできることがあれば、何でも協力しますよ!(難波恭司談)

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98年、難波さんは日本GPで予選2位、決勝5位。続くマレーシアGPでは決勝こそリタイヤしてしまったが、予選は4位。素晴らしい速さを見せつけたのだ。もちろんそれ以前には全日本250ccクラスで活躍し、'93年と'95年にはランキング3位につけている。ね、すげぇでしょう。

そんな難波さんのスプリントレース復帰戦が、10月27日(土)の2007東日本チャレンジカップ選手権シリーズ・FUJIサタデーロードレース第9戦というわけだ。出場クラスはJSB1000、マシンはYZF-R1。レースの詳細はここに掲載されている。

オレは26-27日と富士に行く予定。難波さんには「雨男のGoさんが来るなんて言うから、天気予報に傘マークが付いちゃったじゃないか!」と非難されているが、何をおっしゃいますやら。難波さんこそ砂漠のカタールに雨雲をもたらした男。そもそも世界GPで5位入賞を果たすような人が、雨ぐらいでとやかく言うはずがない。

……富士名物・霧で中止になりませんように。

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コメント

え、JSBっすか!?
・・・・そりゃ一大事。
チームメイトのトモマサ君のチャンピオンがかかってるんですよ。
あぁ・・・複雑。

投稿: なかねっち | 2007.10.23 23:04

あー、一気に文章を読んじゃったよ。
難波サンも凄いし、goさんもすげーよ。
ふたりともアクセル開けてるってことね!

投稿: ヒデヨシ | 2007.10.24 01:53

僕もイッキに読んじゃったよ。難波さんのTV解説は本当に良かった。うちのかみさんが良かったっていうぐらいだからね。日テレの解説もして欲しいなあと思います。

投稿: ジャカルタ | 2007.10.24 02:22

>なかねっちさん
雨っぽいですね……。

>ヒデヨシさん
難波さんはすげぇけど、オレは別に……。

>ジャカルタさん
ドニ、残念でしたね……。

投稿: Go | 2007.10.25 14:13

YDS岡部時代の難波サン&本間サンは強く印象に残ってる。
難波サンは市販タイプのTZ250で清水選手の乗るファクトリーNSR250に喰い付いていたのよね。
筑波みたいな小さいコースではカナリの接戦だった。格好良かった。

投稿: naz | 2007.10.26 02:48

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